恋を知る鬼知らぬ人
02
今年の梅雨は梅雨らしからぬ晴天が続いて、俺はあまり気分が良くなかった。 思い出したくない記憶ばかり、どうしたって思い出してしまう。 母が死んだ日、父が死んだ日。 ――そして、姉が死んだ日。 薫は、転校先で楽しく過ごしているようだった。 といっても、俺が帰国して住み始めたマンションは俺の両親が買っていたもので、亡くなってからは姉夫婦が住んでいた――つまり薫にしてみれば、元々住んでいた場所に戻ってきたことになる。クラスにも小学校の頃の同級生が数人いたといっていたし、友達がいない方がおかしいか。 「学校でスマホ使ったらダメなんだろ?」 「校内ではね。放課後になったら大丈夫」 「へえ、俺ん時と大して変わんねえんだな」 二人で暮らし始めて大体一カ月。こうやって一緒に朝飯を食べることもすっかり日常になってきた。 「おじさんの時もスマホつかってたの?」 「ガラケーってやつ」 「あー、先生が使ってるやつだ」 十六も年の違う女子中学生との会話は、日々がジェネレーションギャップとの戦いだ。もっとも、自分が中学の時何考えて生きてたかなんてもうそんなに覚えちゃいないが。 薫の担任には俺も挨拶したが、たしか二十七とか言ってなかっただろうか。俺より若いのにガラケー使いだなんて古風だなと思う。もしかしたら教師の連絡用にPHSでも持たされていて、それを薫が勘違いしてる可能性もありそうだ。まあ、それを確かめたところでどうということもないのだが。ちょっとした職業病みたいなもんだ、きっと。 「そうだ、明日竹浦さんの所に行くんでしょ?」 「ん? そうだけど」 何でお前が知ってんだ、と訊くと、「アプリの質問ついでにメールしてたら教えてくれた」と言われた。隠していることでもなかったが、自分が話す前に自分の予定について知られていると何だか複雑な気がする。 「アプリ、ちゃんとやってんのか」 真面目だな、と茶化しながら食器をシンクに持っていった。食器洗いと洗濯、それに風呂掃除が薫の担当だ。 「んー、暇な時に?」 「律儀だなあ」 「結構面白いんだよ。ほんとかどうか解んないけど。竹浦さん、今度プログラミングもやってみようか? って言ってくれてさ」 「プログラミング……」 そういう名前の霊能商法じゃあないだろうな。相手が竹浦じゃなかったら即刻やめろと言っているところだ。 「アプリ、ゴーストチェッカーっていってたっけ」 「うん」 竹浦がダウンロードしろと言ってきたのは、名前の通り、そこにお化けがいるかどうかをチェックできるという触れ込みのアプリだった。薫がダウンロードしたもんだから俺もどんなものか入れてみたが、初めから六百円くらい払わないと使えない代物で、ユーザーレビューも『よくできたジョークアプリですが、なぜ課金させるのかが不明』『本当に必要な人以外はダウンロードしないこと』と、胡散臭さが半端ない。 だが、俺も薫もあいつの力を知っている。だから、笑い飛ばす事はできなかった。 「探すついでに自分から変な所に入り込んだりするなよ」 「竹浦さんにも同じこと言われた。大丈夫だよ、私オカルト好きなワケじゃないから」 「ゲーム性があるやつは、ついついやりこんじゃうもんなんだよ」 「はーいはいはい。気をつけます」 がちゃがちゃ、と洗い終えた食器を乱暴に置いて、薫は鞄を持って玄関に向かってしまった。 「いってきまーす」 「いってらっしゃい」 ちょっと言い過ぎたか、と思ったが、案外ちゃんといってきますと言われたので安心した。俺もそろそろ家を出ないといけない。 仏壇に向かって「いってきます」と言って、家を出た。 「悪かったな丹内。たまには店らしいこともするんだ」 土曜日。部活があると言っていた薫を送りだしてから、俺は約束通り竹浦の店に来ていた。 珍しく先客が来ていて何やら話しこんでいたから、一回店を出て、近くの喫茶店でコーヒーを買ってから戻ってくる。 「客か? 階段ですれ違ったけど、何かしらんが怯えられた」 狭い階段だし肩が触れ合わない様踊り場で道を譲ってやったのだが、こちらを凝視したあと逃げるように降りて行った。日常生活を送るのにも一苦労しそうな気弱そうな男だったが、そういうのがこの店の主要な客なのだろうか。 「そりゃあお前、こういう店に縁遠そうな大男がやって来てたらビビるだろ」 竹浦は、俺に店のドアを閉めるように言った。ついでに昼休みの札を下げてくれと言われ、言う通りにする。 「好きでデカくなった訳じゃない」 戻ってソファに座ると、竹浦は書斎机の椅子から立ち上がり、俺の前に立った。 「知ってる。でも、小さいよりはデカい方が今の世の中何かとメリットがあるだろ。妬み僻み程度の小さい呪いは大目に――」 「なんだよ」 いきなり言葉を止めて俺の方をじっと見られる。正直気分が悪い。しかも俺の目じゃなくて、俺の肩よりちょっと後ろの方を見ているときた。首を傾げて、片眉を器用に上げてみせる。芝居がかった表情だ。 「……妬み、か…?」 「だから、何が見えてるんだよ」 「小さい鬼」 「は?」 「ケチャとかの……インドネシアの鬼じゃないか? この間は居なかったのにな。どこで連れて来たんだ」 竹浦はそう言うと、俺を置いて店のバックヤードに消えていった。 「……インドネシア?」 俺が帰国前に勤務していたのはインドネシアのジャカルタ支社だったが、そのつながりだろうか。いや、でも竹浦は『この間はいなかった』と言っていたし。 「……船便かな」 思い当たるフシを一つだけ呟くと、バックヤードから「それだ」と竹浦の声が聞こえた。 社会人になってから約八年間、なんだかんだとずっと東南アジア勤務だった俺は(ちなみに職種は通信インフラだ)、単身とはいえそれなりの荷物を船便で日本に送ってきていた。この間やっと荷物が全部届いたところだったのだが、何か変なものが入り込んでいるってことか。 変なもの、と言えば。 「あ~……切り絵かな」 「切り絵?」 竹浦が戻ってきた。手には霧吹きのような小さい瓶を持っている。 「向こうに現地採用の日本人の先輩がいてさ。奥さんがインドネシア人なんだよ。それで、餞別にって」 切り絵で作った影芝居はインドネシアだけでなく東南アジアの各地で文化として残っており、ナイトマーケットでも人気のみやげ商品だ。切り絵も額縁に飾ればそれなりに高級感がでるし、そんなにかさばらない。悪くない土産だと思ったのだが。 「どんな柄だ」 「祭りの様子って感じのやつ」 「ふうん。今度持ってこいよ」 「明日でもいいけど」 「じゃあ明日」 お前も暇人だな、と笑って竹浦は俺を立たせ、背中を見せるように指示する。 言われた通り後ろを向くと、シュッと霧吹きをひと吹きされた。 レモンの匂いのような……違う、向こうでよく嗅いでた匂いだ。 「レモングラス?」 「あたり。あとまあ、お前に説明しても仕方の無いもの」 振り返るなよ、と言って、竹浦ががし、っと首の付け根を掴んできた。 「痛っ」 「我慢しろ。……今から何か見えるかもしれないが、目を合わせるなよ」 自信がないなら目を閉じてろ。そう言われて、俺はとりあえず目をぐっと閉じた。こういう時、竹浦の言いつけを守れないと酷い目に遭う――そう、高校の時に学んだのだ。 竹浦が小声で何言か呟き、最後に「出ていけ」と日本語で強く発す。その瞬間、俺の耳元で何者かがガシャガシャとがなりたてる音が聞こえた。 『masuk neraka masuk neraka masuk neraka masuk neraka...』 ノイズが混じった歪な声。それが声だと解ったのは、言葉が少しだけ解ったからだった。インドネシア語だ。 「どこへ行けって……」 どこかへ行けと言われている。ジャカルタで使っていた単語。 ガシャンガシャンガシャンと、耳元でガムランの銅鑼が鳴る音がする。音の大きさに頭が痺れて、竹浦の声がするのによく聞こえない。 「……な、行くな。こいつを出て行かせろ」 銅鑼の音に頭が慣れて、竹浦の声が徐々に聞こえてくる。 「は? 出てけって?」 掴まれた場所が熱い。人の手じゃない、熱した石かなんかじゃないかと言う位、じりじりとしてくる。 『masuk neraka! masuk neraka!! masuk neraka!!!!』 「こいつに伝わる言葉で、出てけって言え」 段々でかくなる鬼の言葉に比べ、竹浦の声は静かだ。 「出てけ……?!」 何だ、出てけって何て言うんだった!? 頭を何かがしめつけようとしてくる。俺は振り払うように手で何かを掴んだ。毛がまきついた仮面のような甲羅のようなもの。向こうでよく見た仮面の鬼が頭を過る。 「keluar! Keluar dari sini!!」 空港のEXITに書いてある文字を思い出して、そこからは早かった。 出てけ、こっから出てけ。 掴んだものを思い切り地面に叩きつけるようにぶん投げる。ガシャン!と一際大きな音が鳴って、俺は思わず目を開けた。 「……は……」 辺りを見回すが、何もない。 さっきと変わらない、本が雑然と積まれた空間。 俺の首を掴んでいた手が、ふっと離される。 「お疲れさん」 ぽん、と背中を叩かれ俺は振り返った。 いつも通りの竹浦がいて、思わず長い溜息が零れた。 「……消えたのか」 竹浦は首を横に振った。 「お前から引きはがされただけだ。消すには、元凶の切り絵をどうにかしないといけないだろうな」 やっぱりか、と俺はもう一回溜息をついてソファに座りこんだ。残っていたコーヒーを口にして、そんなに温くなってないことに驚く。結構な時間が経ったような気がしたのに、そんなこともないらしい。 「……薫が家でゴーストチェッカー開いてたけど、あれには何も引っかからなかったぞ」 「幽霊じゃあないからな」 幽霊、が人の霊だと言うのならば、それとは違うという事だ。 「……鬼、っつうか、魔物か」 俺は、さっき頭に思い浮かべた仮面を思い出す。 ジャカルタ駐在時、接待ついでに何度かああいうお面が出てくる芝居を見た。 特に思い出されるのはバロンダンスだ。良心の神獣バロンと魔女ランダの永劫に続く戦い。見ながらいつもあくびをかみ殺していたが、まさかこんなところで知識が役に立つとは思わなかった。 「その切り絵の贈り主から、何か恨まれるような覚えはあるか」 竹浦が、さっき使った霧吹きをしまい、代わりにマグカップを持ってくる。ティーバッグを入れ、給湯器からトポトポと湯を注ぐ様を、なんとなく見つめる。 さっきのことなど、まるで意に介していないような普通の行動。十三年ぶりにまともに会った友人の、生活感のある動きと言うものがなんだか珍しかった。 「丹内?」 振り向きざまに名前を呼ばれて、反射的にしまった、と思う。 「……ああ。恨みなあ。全然心当たりがない」 「だろうな」 その、やっぱり、というトーンにムッとした。俺が鈍感なのは高校から変わらないとでも言いたいのだろう。 「しょうがないだろ、俺は性善説を信じてんの」 「そこを無理矢理でも考えてみろよ。実際呪われてるんだから」 「無理矢理、っつったってなあ……」 仕事で一緒だった人を悪く言うなんてことしたことないが、向こうはそうじゃないのかも、とか考えてなんとか想像を膨らませる。気分は良くない。 「隅田さん、て言ったんだけどな。さっきも言ったけど現地採用で、ジャカルタの色んな現地企業とコネがあって、最終的にうちに入った」 「奥さんとは仲が良かったのか」 「夫婦仲は良かったよ。俺も何度か家に呼ばれて」 思い出すにつけ、いい夫婦だったなあという感想しか出てこない。 「出世に関する話は?」 「いや? 出世っつうか、俺のことたまに『所詮本社に戻る人間だから~』みたいなこと言われた位で」 それも本当のことだから深く受けとめなかった。当時の支社長も本社から赴任してきていて、隅田さんとちょっと仲が悪いかも、なんて他のスタッフに言われていたけれど、ペーペーの俺ができることなんてなかったし。 「……お前の話を百パーセント信じたとして、その奥さんの被害妄想っていうのが一番確度が高いな」 「奥さんの?」 竹浦の推測に、俺はおもいっきり怪訝そうな声を出した。まさか、信じられない。 「実際、切り絵を贈ってきたのが奥さんなら、それに黒魔術を仕込んでいてもおかしくはない」 「黒魔術って……」 さっきのがそうだと言うなら、とんでもない効き目だ。俺みたいに鈍感な男だから何とかなったのかもしれないが、ちょっとでも繊細な人間だったらノイローゼになりそうだ。 「聞いてない訳ないだろ? 現地法人ならあそこの迷信深さにはほとほと困らされてる筈だ」 「そりゃあそうだけど」 インドネシアは白魔術や黒魔術といった術の類が現役で信じられている。そういうものは他に駐在していた国でもあったが、仕事にまで深く影響を及ぼしていたのはジャカルタ位だ。 「大方、お前が本社に帰ることが奥さんにとっては出世で、旦那を差し置いてキャリアアップするのが気に食わなかったんじゃないか」 「いや、それはない……と思う」 隅田さんに比べれば俺は全然新人の域だったし、現地採用とはいえ奥さんも居て、ローカルルールに詳しい彼の方が給料も高かった。彼女がそれを知らない筈がないのだが、隅田さんが適当な事を言っている可能性も捨てきれない。 「お前と隅田さんの間にそういう気持ちがなくても、彼女はそう思ったかもしれない。お前自身じゃなくても周りの人間が不幸になれば、彼女の呪いは果たされたかもしれないし」 「俺の周り?」 「会社とか」 「あ~……言われてみれば、本社の本部長とかが来た時、接待とか殆ど全部俺がやらされたな」 今考えると、隅田さんは本社の人間と積極的に付き合おうとはしていなかった。現地採用の日本人は本社の人間に対して異常なほどゴマをするか、距離を置くかの二択になりがちで、その後者のタイプかと思っていただけだったが。 「呪いっていうのは何も、かけた相手本人だけを不幸にするもんじゃない。貧乏神みたいに周囲に影響を及ぼす。そういうタイプのものだってある」 細かい事はモノを見ないと解らないが、と言って、竹浦は窓の外を見た。 「……ああ、店、もう開けてもらってくれ」 客が来たのだろうか。俺は腰を上げて店の扉を開ける。 「俺、店出た方がいいか」 また怖がらせては申し訳ない。 「ご自由に。……明日じゃなくて今日持ってくるか?」 怖いだろ。 そう言って人の悪い笑みを浮かべる竹浦に、俺は「明日でいいよ」とつい言い返してしまった。 それを後悔したのは、家に帰って薫に始終を話した直後だった。 「なんで今日のうちに解決してもらわなかったの?!」 「一応俺からは出てってくれたわけだし」 晩飯の豚しゃぶサラダをもりもり食べながらぷりぷり怒る所をみると中学生だなぁと思う。感情と食欲は別という奴だ。 「てことは、おじさんにとりつけなくなったら今度は私が金縛りとか遭うかもしんないってことじゃん」 薫は賢い。そう言う頭の回転の速さは姉譲りだ。 「お前そんな金縛りとかあるタイプだったのか」 「ないけど! あるかもしれないじゃんって話してんの」 「俺はなかった」 「おじさんは鈍感だから~~あ~もう、いっそ今晩竹浦さん来てくれたらよかったのに~」 何なら泊まってもらっても良かった、と、思春期の女子にあるまじき言葉を言う。 「女子中学生が居る家に男友達を泊めるとか、普通考えないだろ」 大体、竹浦から言われたのは店に切り絵を持って行くかどうかだ。あいつの仕事時間内に荷物を解いてブツを見つけられるかどうか自信がない。 そもそも、あいつを家に泊める? 薫が居てもいなくても考えたこともない。 「竹浦さんからは性的な匂いがしません」 「なんじゃそら。お前なあ、あいつだって男だぞ」 中学生らしいトンデモ理論に白目をむきそうになる。口が達者だが、その言葉には何ら裏付けがない辺りが人生経験の差という奴だろうか。 まあ、俺だって裏がある発言でもなんでもない、ただの一般論でしかないのだが。 「少なくとも私みたいな中学生に手だしするような友達、おじさん持ってないでしょ」 「薫……それ返事に困るぞ」 ここで『いや、お前は可愛い』と言っても、はたまた『竹浦もひょっとしたら』と言っても、どちらにしても事案が発生する。 「おじさんのこと褒めたのに。まあいいや、私、今日おじさんと一緒に寝る」 「は?」 折角回避したと思ったのに、事案が向こうからやってきた。 「別の部屋の方が怖いし。あ、その切り絵だっけ? それは別の部屋に置いといてよね」 「書斎のダン箱の中に入ったままだけど」 親父の為だった小部屋は、義兄の頃からスタックルームと化している。便宜上書斎と呼んではいるが、今は俺の荷物が解かれないまま置いてあった。 「じゃあもうその部屋の前に盛り塩しとこーよ」 「ビビリすぎだろ……」 宗教が違うのに塩が有効かどうかは解らん。 そう言うと、「じゃあ何置けばいいの」と薫は真顔で聞いてきた。 「……うーん」 俺はレモングラスのあの香りを思い出す。虫よけスプレーでもかけておけばいいんじゃないだろうか。 そう言ったら死ぬほど怒られた。 |