恋を知る鬼知らぬ人

03


 今日も雨は降らない。
 全国的に干上がった梅雨らしく、西日本では水不足が懸念されている。
 もしかしたらこの天候こそが、俺にとっての一番の呪いかもしれない。
 気にしないようにすること、それ自体が罪のような気すらしてくる。
 日々を穏便に過ごしたい。
 ちゃんと稼いで薫に不自由はさせたくない。
 それだけなのに。


「それで、薫さんは眠れたのか」
「ぐっすりだった」
 日曜、俺は午前中に荷物をひっくり返して問題の切り絵を見つけると、午後にならないうちに葡萄古書店まで来ていた。
 薫も来るかと聞いたが、『行くわけないじゃん』と即答された。今頃は冷房をきかせた部屋でアイスでも食べながら宿題をやっているか漫画を読んでいるかしてるだろう。
「中学生の姪と添い寝なんて、今日び中々できることじゃないぞ」
「インドネシアの黒魔術に悩まされる日本人会社員と、どっちが珍しいんだ、それ」
「はは、」
 竹浦は心にもない笑い方をして、俺が持ってきた袋の中身を書斎机の上に広げた。
 A4サイズ程度の切り絵は、梳きの荒い和紙のような白紙の上に黒一色で作られている。絵には祭壇と仮面を被った人が描かれていた。
「確か牛皮かなんかって言ってたな」
「伝統的なワヤン・クリの影絵作りのようだが」
「調べたのか」「少しな。お前が悪夢にうなされてる間に」
 俺は閉口した。確かに悪夢を見るには見たが、それをこいつには一言も漏らしていない。
「図星だって顔してる」
「お前、カマかけたのか」
 性格悪いぞ、と文句を言うと、竹浦は「すまんすまん」とこれまた1ミリだって思っていないだろうトーンで言う。
 俺が見た悪夢は、例のバロンとランダの闘いに巻き込まれるというもので、ランダの使い魔に食い殺されそうになるという悲惨な終わりを迎える直前に目が覚めた。
 薫じゃなくて俺が悪夢に襲われる程度で済んで良かった(し、多分あの夢は俺が考えながら寝たから見た夢だ、呪いじゃあない)。
「……丹内、これ、裏表が逆じゃあないのか?」
「ん?」竹浦に訊かれて切り絵を覗きこむと、奴は切り絵をひっくり返していた。裏側が着色されていることに気が付いたようだ。
「ああ、これは影絵の手法だ。何でも、色がついてる方があの世で、この世の人間が見れるのがあの世の影っていう寸法だ」
「お前はそれを丸めて保存していた、と」
「何だよ、別にマジで影絵に使う訳でもないし、飾るまでは平気だろ」
 皮で出来ているなら折り目もそんなに気にしなくても良い。本当は直ぐに飾るつもりだったのだが、バタバタしていて出来なかった。
 俺の言い訳を聞いて、竹浦は長い瞬きをした。
「……呪いというより、お前の扱いの所為で魔物が出てきた気がする」
「じゃあ俺が扱いを正せば問題ないってことか」
「前向きすぎるだろ」竹浦はぺし、と俺の額を軽く叩いた。こういうツッコミを受けるのは久し振りだ。
「お前が丸めていたおかげで、裏と表――あの世とこの世の感覚が曖昧になった、そういう可能性がまず一つ」
「一つ……」
 複数あるのかよ、と思ってげんなりする。ただまあ呪いじゃないなら何よりだ。世話になった恩を恨まなくて済む。
「もう一つは、隅田家がそれを持て余していた可能性」
「持て余す?」
 そんなに沢山切り絵を持ってたってことだろうか。俺の疑問を見透かしたように竹浦は首を横に振った。
「考えてもみろ。あの世とこの世が繋がった演目をやっていると言っても、全部が全部本当に繋がっている訳ないだろ」
 そもそも繋がっていること自体がおかしいと思うんだが(フィクションの演目だろ)、竹浦が言うと信憑性があるように聞こえる。
「じゃあ何だ。これがリアルにあの世とこの世を繋げるものだから、隅田さんは扱いに困って俺に寄越したって言いたいのか」
「そう。お前は特別信心深くない。ジャカルタの人から見れば他教の徒か無神論者に見えるだろう。だから影響も受けないし、これの真価にも気がつかない」
「何か馬鹿にされてる気がする」
「俺もそう思うよ。……お前は、別に無神論者でもなければ、影響を受けないわけでもない」
 そうだろ、と訊かれて俺は頷いた。一応家には仏壇があるし、墓参りだって法事だって必要とあらば会社を休んででも参加する。影響に関してはよくわからんが、悪夢がそうだと言うのならそうなんだろう。
「……これは俺の方で預かってもいいか」
「別に構わねえよ。家で持ってても薫がうるさいだろうし」
「だろうな」
「まさか、売ったりしないだろうな」
「高値で売れると言ったらどうする」
 人の悪い笑み。別に隅田夫妻に義理だてすることもないだろ、向こうだって厄介払いでお前に寄越したんだ、と悪魔のような囁きが聞こえる。
「……分け前は」
 竹浦には世話になってる。全額くれてやっても良かったが、こいつはそうしないだろう。
「半分でどうだ。まあ、薫さんと料亭で飯を食ってお釣りがくる位かな」
 ということは数万円と言う所か。悪くない気がする。
 隅田夫妻が俺の家に遊びに来るという事も考えにくいし、切り絵のその後について聞かれたとしても適当にあしらえば良いだろう。
 ――もし、あれが本当は隅田さんからの呪いだったとして
 それが俺や俺の周囲に効かなかったことを訝しむだろうか。俺はその時何と言って誤魔化そう。無宗教なもんで? まあいいや、その時になったら考えよう。
「……お前に任せる」
「どうも」
 竹浦は仰々しく頷いて、切り絵を綺麗に伸ばして手持ちの額縁におさめた。もしかしたらその額縁の裏にはお札でも貼ってあるのかもしれないが、わざわざ確かめるのはやめとこうと思う。
「断られなくて良かったよ」
 竹浦の声音が珍しく殊勝に聞こえて、俺は首を傾げた。
「そんなに需要があるのか、その切り絵」
「需要はまぁそれなりに。……それ以上に」
「?」
 額縁を後ろ手に、竹浦はずいとこちらに顔を寄せた。
 右手で俺の額の端、ちょっとくぼんだ部分に触れる。
「鬼と魔物は引きはがした方が良いだろ」
「鬼……」
 俺は、触れられた部分が熱くなっていくのを感じた。
 何か思い出してはいけないことを思い出してしまいそうになる。
 思い出すな。思い出しては駄目だ。
 竹浦、俺に『それ』を思い出させるな。

「お前こそが鬼だ――忘れたとは言わせないぞ」

 咄嗟に伸ばした手があいつの口を抑える前に、言葉が放たれてしまった。




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