Oracle36000/天啓、トールより

01


親愛なるシチロー・シシジマ様、


 トール・グアム観測所が2219年1月1日に受信した天啓に基づき解析を行ったところ、2219年1月15日付けで貴方の遺伝子情報がメイティングされたことが判明しましたのでご報告致します。

 貴方の遺伝子情報は今後60年(2278年12月30日)交配優勢種として扱われ、以降も全医療機関のサービスを無償で受けることができます。その他各国における特例、およびメイティングについては、各政府から発行されているトール・メイティング・ケアを参照して下さい(ご参考までに、グアム観測所が所属するアメリカ合衆国版を添付しています)。

 今後貴方の遺伝子情報に係わる全ての記録は自動的にトール・データセンターへ蓄積されます。メイティングの拒否、あるいは免責事項等細則については別添の資料をご確認下さい。

 それでは、良い人生を。


 トール・グアム観測所 

 所長 ユマ・エヴァンス



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■西暦2225年 6月 シンガポール■



 何百年も続く伝統的なセール月間、それが6月だ。
 地球上のあらゆるハイ・ブランドが軒並み半額、またはそれ以下となり、国中はおろか隣国のホテルまでが一気に予約で埋まる。
 毎晩がお祭り騒ぎのようなもので、日が沈んだ午後八時、リバーサイドの洒落たバー・ストリートなんかは、観光客で溢れかえっていた。
 その対岸で、獅子島七朗はスツールの脇にスケートボードを立てかけ、シーズナル・ビアをごくりと煽る。
「マジだ、めっちゃバナナの味」
「でしょ」
 カウンターの向こうに立つ、黒髪の美しいライラは、物心つく前からの付き合いになる幼馴染だ。彼女がこの店を始めてから3年、こうしてよく飲みにきている。この時期の限定入荷だと言うビールはちょっとお高めだったが、常連だからと特別にいつものドラフトと同じ値段で出してもらっていた。
「今日パパ・リクは?」
 ティーンからの知り合いとなると、互いの両親のこともよく知っている。七朗は小皿に入ったナッツを無造作につまみながら答えた。
「あー、基一の所に行ってる。島の方」
「パパ・キーツ! 元気にしてんの?」
「相変わらずだよ、相変わらず。こないだトールのでかい破片が回収できたとかでめっちゃテンション高いけど」
「そういえばニュースあったかも。私どっちのパパも好きだから、今度また二人連れてお店来てよ」
「伝えとく」
 頷くと、ライラは大きな黒目で上手にウインクして、揚げワンタンとワニのジャーキーの小皿を七朗の前に置いてカウンターから出て行った。
 観光客らしき集団に「注文があったら声かけてね、シンガポールは有人接客が基本だから」と話しかけに行くライラ。彼女の声を聞きながらナッツの次にワンタンを指でつまむ。
 大した環境汚染もなく人口管理も適正なシンガポールでは、前世紀の第二次シンギュラリティ以降もこうして人が働き、人が人に話しかける。
 有人接客そのものが観光財源にもなるというのだから、この小さな大国の政策には苦笑するしかない。
「ところでさ、ほんとに来るかな?」
 ビアサーバーからグラスに泡が溜まるまでの間、ライラが聞いてくる。
「え? 今日はもう降らないだろ」
「雨の話じゃないって。もー、嫌なら嫌って言えばよかったじゃん」
「嫌ってわけじゃないって」
「レオ、素直じゃないから」
 レオは七朗のニックネームだ。
 シシジマシチロウなんて名前、日本人だとしてもそう巧く発音できない。
「今更そういうのもねえよ」
「ふうん」
 ライラは含み笑いを浮かべて、ビールをサーブしに行った。といっても、グラスを運んでいるのは低廉化された自動カートだが。
 七朗は、スツールに立てかけていたボードを右足でひっかけ、左足で器用に回転させた。
 なんとなく、バツが悪い気持ちになる。
 頭の切り替えをした方がいいな、とリストバンドからニュースをとりだした。
『トール・グアム観測所、今世紀のメイティング傾向から次世代の気候変動を予想』というヘッドラインが流れていて、タイムリーすぎるだろうと画面を切り替える。今、観測所関連の情報は見たくない。
『クラーク・キーの新エリア、七月から日本フェアを開催』――このニュースの方が楽しそうだ。
『前世紀の大災害以前の日本を追体験する、プリミティブでイマジナティブなフェア』
 何を言っているのかさっぱり解らない。
 原始的で幻想的。
 結局東南アジア諸国にとっても、もう日本はそういう国になってしまったということなんだろうと、自分の足で踏んだこともない祖国の地を思った。
 名前と、母語。両親の家系図に、歴史や文化のデータ。数百年分の映画と音楽のプレイリスト。
 それだけが七朗を日本人だと認識させている。


 日本の送電衛星に地球外生命体が寄生したのは、今からちょうど150年前のことだ。
 当時の日本は、首都直下地震を皮切りに全国で地震が群発していた。とどめとばかりに起きた富士山の大噴火により国の機能は大幅に縮小せざるを得なくなり、震災以前の状況に戻るには百年を要するとまで言われた。
 従来の発電方法に頼れなくなった日本がとったエネルギー開発方法、それは静止軌道上に巨大な送電衛星を打ち上げることだった。宇宙財源によって国力を回復しようと画策していた日本政府だったが、悲しいかな、その夢が結実することはなかった。


 ――衛星に、地球外生命体が寄生したからだ。


「あーあ、」
 つまらないニュースでしょうもない感傷に浸ってしまった。
 手元のグラスの中身もすっかり温くなってしまっている。ちびちび飲んでも仕方がない、と一気に飲み干した。
「そんな一気に飲んで。君、そんなに酒は強くないだろ?」
「は? ……あ、」
 観光客にでも絡まれたのかと思って剣呑な顔を向けると、そこには知らない――とは言えない笑顔があった。
「やあ、暑いね」
 質の良さそうなグレーのシャツを着た長身の西洋人。日焼けとは縁遠そうな肌の色は、北の出身であることの表れだ。
「シンガポールだからな、ノルウェーじゃない」
 彼の出身地に比べれば、より赤道に近いこの国が暑くないわけがない。
「隣に座っても?」
「好きにしろよ。……エイリーク」
 名前を呼ぶと、ノルウェー人の男――エイリークは、解り易い笑顔を浮かべた。
「ああ、ついに会えたな、七朗」
 長い足でスツールに腰掛け、こちらを見つめる男の目は冬の空のような灰色だ。日本人が発音するように七朗の名を完璧に呼ぶと、こちらに手を差し伸ばしながら笑みを深くした。
「……マジで来たんだな」
 手を出してグッと握ると、相手の手が自分より明らかに一回り大きいのが解る。
「ああ、予定通りの飛行機に乗れたからね。ドバイ良かったよ、七朗は行ったことが?」
「ある。ガキの頃だけど」
 もうタワー完成してんだっけ、と首を傾げた。最近、世の中の情勢に疎い。
「ああ、完成していたよ。優美かつ機能的なデータセンター兼防護壁の連なり。神の指とはよく言ったもんだ。しかし、あれは偶像崇拝にはならないんだろうか」
「さあ、ならねーから建ったんだろ」
 案外普通に話ができている。そのことに、七朗は内心一番驚いていた。
 隣に座ってきた男のフルネームはエイリーク・ランプランド。年は確か七朗より二つ上で、27歳。建築家で、何年か前から大小の賞をとっているはずだ。ドバイで仕事をこなしてから来たらしい。
「あれ、レオ、友達?」
 観光客の団体を見送ったライラが、カウンターに戻ってきてエイリークを見る。七朗は露骨に眉根を寄せた。
「ライラ、これだよ、こいつがあれ」
「エイリークです、初めまして。七朗のメイティン……」
「おい、」
 あまり大きな声で言うようなことではない。少なくとも東南アジアにはまだそういう美徳が残っている。ノルウェーではどうだか知らないが。
 だが、止めるのが遅かった。ライラはすぐに理解して目を輝かせた。
「えっ、あなたが? レオの? 話に聞いてたより全然かっこいいじゃん! ねえビールでいい? オススメがあるの」
「お願いするよ」
 テンション高くビアサーバーにグラスを置くライラと、その様子を笑顔で見守るエイリーク。
 この図を、七朗はいつか夢で見たような気がしていた。
 夢のようにかけ離れたことだと思っていたのだ。それが、今目の前で繰り広げられてしまった。



 地球外生命体は、衛星が打ち上がってすぐ寄生したと言われている。
 初めは小石大のデブリが挟まった、と報告されていたらしい。実態は硬化していた生命体が衛星との接触により徐々に液体化し、内部に侵入していったと考えられている。気が付いた時には、あっという間に乗っ取られてしまった。
 地球外生命体が「悪」だと認識されたのは、それが次第に周辺衛星を取り込み、アメリカや中国、ロシアといった大国の軍事通信網を断絶してしまったからだった。
 全ての宇宙開発は一旦中止され、送電衛星の打ち落とし計画がアメリカとロシア主導で進められた。
 しかし、過去巨大な衛星を破壊した際のスペースデブリや有人飛行による事故等問題が噴出し、初動はどんどん遅れていった。
 そうこうしているうちに、今度は地球上で原因不明の熱病が流行し始めた。これもエイリアンのせいだと言われているが、発生源は未だに解っていない。
 熱病は当初赤道直下の国々で発生していたが、効果的な対策を見つけるより早く世界中に広がった。流行病は全世界の命を奪うだけではなく、人々の生殖能力自体を著しく低下させる特徴を持っていた。
 進んでいく人口減少とエイリアンの脅威との狭間で世界中が混乱する最中、送電衛星や周辺衛星から、意味不明の電波が送信され始めた。
 暗号ではないか、と解読を試みる国は多かったらしい。だが、間違ったコードを叩きだした国は情報ウイルスにかかり、次から次へと国としての機能を成さなくなっていった。
 熱病ではなく、世界恐慌――ひいては人類滅亡こそがエイリアンの狙いだったのだ、と誰もが絶望した。
 その時、初めに『正しい情報』の分析に成功したのが日本の研究施設だった。
 初めて解読されたのは薬品の化学式だと歴史の教科書には書かれている。マウスで実験を行った結果、それが熱病の抗体を体内に生成するものだと言うことが判明した。
 こうして人類は滅亡の危機を回避し、送電衛星に寄生した地球外生命体は『トール』と名付けられ、『天啓』と呼ばれるメッセージによって、人類をコントロールし始めるのだった。
 一方日本は世界のヒーローになることを望まず、データ解析で得た収入によって最低限の外交のみを行うだけで、実質鎖国状態となっている――。


 シンガポールのハイスクールまで通った人間なら、誰でも言える内容だ。
「神様なんだか、悪魔なんだか……」
 七朗は、アルコールで浮つきそうになる頭を理性で押さえつけながら、隣でじっとこちらを見つめてくる男を睨むように見返した。
「? トールのことかな」
「……おう」
 ――これが、俺の
 メイティング相手、だなんて。
「北欧の神様を、悪魔とは言われたくないけど」
 でも仕方ないかな、とエイリークは肩を竦めた。
「トールって名前がつく前、日本ではタコだとか、雷神様だとか、まあそういう名前がついてた」
「雷神か。やっぱりどこもそういう発想になるね」
 相づちを打つエイリークを、七朗は頬杖をつきながら、なるべく客観的に見てみようと思った。
 色素のせいでぼんやりとした輪郭に見えがちだが、肩や腕はかっちりとしている。一八五センチはありそうな長身の半分以上は足なんじゃないかと思わせるボディバランスは、東南アジアのこまごました街に似合わないような気がした。
 トール・メイティング・ケア協会が用意したコミュニケーションツールのおかげで、実はエイリークとはこれまでも何度かオンラインで会ってはいた。
 けれども、お互い抵抗があったのか、ビデオチャットをしたことは一度もなかった。互いの動画は、別のデータでしか見た事がない。
 だから、自分だけを見るこの男の目が、ただ灰色なだけではなく、よく見たら青も混じっている事に今日初めて気がついた。くすんだ金髪にくすんだ青と灰色の目。曇り空に覗く陽の光のようだと思った。
 エイリークも、七朗をリアルでみるのは初めてだ。他愛もない話をしながら、何度も目が合う。
 じっくりと、今までデータでしか知らなかった絵画の実物を眺めるような視線で、居心地は良くない。
 こっちの天気とか、向こうの気温とか、互いの仕事とか、まぁ何気ない話を続けてみてはいるが、なんとなく話題が頭に入って来ない。きっとその視線の所為だ。


「二人とも~、私帰るけどどうする?」
 話し始めてからどれくらい経ったのか、ライラが声をかけてくれた。
 時間を確認すると、夜十時を回っている。
 店自体は夜中までやっているが、ライラは閉店まで仕事せず、親戚にシフトをお願いしているようだった。
「俺も帰る」
「じゃあ僕も」
「あ、そうだ、お前結局宿は」
 来る、ということだけ聞いていたので、確認の為に訊ねた。
 エイリークは首を横に振る。
「やっぱりホテルはとれなかった。事前に連絡しようと思ったんだけど――」
 やや気まずそうな顔をされて、こんな風に人間らしい表情もするんだなと思う。
「気にするなよ、そんなことだろうと思ってたし」
 この六月のバーゲンシーズンに泊まれるホテルなんてないだろうと踏んで、よかったら泊まれば、とは伝えておいたのだが。
 思えば両親は、これを見越して島の方へ行ったのかもしれない。家は基本的に綺麗だし、ゲストルームもある。何も問題はないだろう。


 会計を済ませ、一行は賑やかな繁華街エリアの裏側へと歩き始めた。
 ライラが一緒に帰ろうと言ってくれたのが、七朗は嬉しかった。
 エイリークとなんとなく世間話をするにはしたが、二人きりでただ歩くというのは少し気まずかった。
「ねえ、ところでさ。二人はやっぱ結婚するの?」
「は?」
 しかしライラは、別にこちらの気持ちを慮って一緒に帰っていたわけではないらしい。まるで明日の天気を問うように気軽いトーンで聞かれ、七朗は戸惑った。
 メイティング――トールによる遺伝子交配を示唆された二人が、必ずしも結婚しなくてはならない法律はどの国にもない。それはそうなのだが。
「それは、これから話し合う予定だよ」
 言葉に詰まった七朗にかわって、エイリークが返答する。
 ――しない、とは答えないんだな、こいつ
 声音も決して厳しいものではなかった。
 やはり、この来訪の目的は『話し合い』なのだな、と思って気が重くなった。
「ふーん。……エイリーク、私はレオと赤ちゃんの頃からの大親友だから、何かあったら相談してね」
 そう言って、ライラは連絡先を共有した。
「ありがとう、心強いよ」
「どういたしまして。じゃあ私帰りあっちだから。レオ、またねー」
「ああ、おやすみ」
 ライラは言いたい事を言ってさっさと帰っていってしまった。女性が一人で帰っても何も危なくないのがこの国の良い所だが、今日ばかりはそれが憎い。
「あー……もうちょい距離あるけど、タクる?」
 妙な間が開いてしまって、七朗はポキ、と首を鳴らした。
「どちらでも。スケートボードは?」
 小脇に抱えたボードを指さして、乗らないのか、と訊ねられる。
「俺、酔ったら乗らないようにしてるんだわ」
「結構真面目だね、昔から」
「お前が俺の昔を話すなよ」
 やはりこの大男と、狭いタクシーに同乗する気になれない。七朗は徒歩を続行した。
 夜は植物と土の匂いを増幅させる。その空気を胸一杯吸い込んで吐き出すと、アルコールも分解していくような気がするから不思議だ。

 ――今まで、
 お互い、メイティングされていることは承知の上で、しかしその先のことには言及してこなかった。
 おそらく、言い出すのが怖かったのだろうと思う。
 七朗がトール・グアム観測所から電子書状を受け取ったのは十九歳になる年で、エイリークは二十歳そこそこだった。互いにメイティングのシステムを理解する為に、関連資料を熟読したことだろう。
 それが、何故六年後になっていきなり。
「いい友達を持ったね」
「ライラ? ああ、マジいい奴だよ」
「彼女は?」
「何が聞きたいんだ? あいつは友達だし……」
 一瞬、言ってしまいそうになって何となく語尾を濁らせた。
 しかし、エイリークは七朗が何を言いたいのか気がついたらしく、「そうか」とだけ呟いた。


 トールがもたらした熱病の特効薬は、人口の急激な減少こそ押さえたが、かといって完全な回復には至らなかった。
 生殖機能の低下は特に女性に遺伝し易く、二十一世紀と同じような方法で彼女たちが自然に妊娠するのは非常に難しくなってしまっている。
 ライラも、類に漏れず『そう』だった。
 なんとか解決させようと、トールと人類が推進させて来たのが、生物学的性別にとらわれない交配の仕組みだ。
 人工子宮や、同性同士の遺伝子のみでも交配することができるようになる研究の結果、七朗の両親のように――そしてこのメイティング制度のように、同性同士でも子供を持てるようになったのが二十三世紀現在だった。

「……ノルウェーは、熱病被害あんま受けてないんだろ」
 勿論、例外地域は存在する。
 熱病は主に赤道直下の国を中心に広がった為、北欧、特に人口の少ないエリアには影響は薄かった。その為、同性同士よりも男女の自然交配の方が未だになじみ深い、と七朗は何かで読んだことがあった。
「まあ、そうだね。昔――付き合っていた彼女は罹患遺伝子を持たなかったよ」
 つまり、自然妊娠ができるということだ。
「すげえじゃん。何で別れたんだよ」
「死に別れだよ。先にこの世に別れを告げてしまったから」
「……そっか」
 何の気なしに聞いてしまったことを後悔した。
 世の中が少子化だ人口減少だ、という話になると、子供はそりゃあ大事にされる。
 七朗も何不自由なく育てられた自覚があるが、女性で、更に旧人類の生殖機能を持っていると診断されたのならば、まるで天使かのような扱いを受けていたことだろう。
 そのストレスが彼女を殺してしまったのかもしれないと、その人をろくに知らない七朗ですら想像に難くなかった。
 ――つーか、なんでそんなこと、さらっと
 この紳士的な男なら、そんな重い過去を軽々と話したりしないように感じた。
「僕が十七の時の話だ、だから気にしないでくれ。もう十年も前のことなんだから」
「……優しいな」
 眉根を寄せながら言うと、エイリークはそうかな? と言いたげに首を傾けた。
 道は次第に住宅街へ入って行く。
 比較的河川に近い、低層の旧公団団地の一角が、獅子島家の住居だ。
 20世紀初頭の建築様式を保持した状態でフル・リノベーションされており、高級住宅街として知られている。
 結局、少しの気まずさを引きずったまま、家についてしまった。
「来週のトリエンナーレまで居るのか?」
 七月に入ると、バーゲンから一転、街は建築関連のカンファレンス期間に入る。常にサステイナブルで革新的な街づくりを目指しているシンガポールは、建築業界でも常に注目を浴びており、大規模な建築展は三年に一回行われている。
「そのつもりだよ。いくつか商談もある」
「稼ぐねえ」
 七朗はからかうように言いながら、家のセキュリティを解除した。認証完了の音が真夜中の住宅街に響く。
 共用のエントランス、階段ごとのフロアゲート、戸別の玄関分の三回。後でシステムにエイリークの情報も登録してやらないとならない。
「君だって来週末に大会があるんだろ。今シーズンも賞金王に? って記事が出てた」
「知ってんのか」
「勿論。広告も見たよ」
 自分の事も調べられているのかと思うと、気持ち悪さとは違うむずがゆさがある。
 七朗はスケートボードの大会に出て賞金を貰っている、言わばプロのスケーターだ。
 スポンサーブランドの広告にも出ている。きっとそのうちのどれかを見られたのだろう。
「インフラ業に比べりゃ微々たる賞金だよ。ほら、入れよ」
「どうも」
 人が減った世の中で、確かに単純労働は機械化されていったが、かといって仕事に困るかというとそうでもない。
 要は、儲かる仕事とそうでもない仕事に分かれているというだけのことだ。
 勿論、儲かってる奴の方が豊かな生活が送れるし、やりたい事を仕事にできる人間の方が幸福度は高い。
 建築が好きで、建築家になって、更に成功もしているエイリークは、一般的に見てもかなり豊かな方だろうし――それだけで、幸福なはずだ。
「荷物はそれで全部か?」
 玄関脇のスタッキングゾーンに届けられていたスーツケースをエイリークが確認するのを待つ。
「ああ、これだけだよ」
 しかし、素晴らしい家だ。
 そう中に入るなり称賛の声をあげられて、少々ワーカホリック気味ではないかと心配になった。
「天井低くねえか? まあ、簡単に説明してやるよ」
 両親の主寝室、自分の部屋、ゲストルーム等、おおよそ前々世紀に完成されたスタイルの間取りを淡々と説明して回る。
 4階建ての建物の、上半分が七朗の家だ。クラシカルな雰囲気を保ちながらも、シェルターがきちんとあるのがこの団地の売りでもあった。
「お前はそこのゲストルームで寝てくれ。バスルームはそっち。俺の部屋と繋がってるから、必要なら鍵をかけてくれ。アメニティは好きに使っていい。それと……ドギー?」
 部屋の奥に呼びかけると、隅で充電待機中になっていたジャーマンシェパード型のサービスロボットがやってきた。見た目は完全に犬だ。
 その頭を撫でながら「エイリークの荷物を持ってきてくれ」と依頼する。
 ドギーは家のセキュリティシステムと同期されている為、エイリークをスキャンしてその情報を登録すると、すぐに玄関へ向かった。
 後ろ姿を指さして、「何か要り用ならあいつを呼べばいい」とエイリークに告げる。中身は中流以上の一般家庭ではありふれた型のサービスロボットだから、使い方が解らないということもないだろう。
「ありがとう。そうだ、七朗――」
「ん?」
 長くなりそうだったら、出来れば明日以降にしたい。そう思いながら相手の言葉を待ったが、エイリークは少し思案げな間を置いた後、「いや、何でもない」と手を横に振った。
「そうか? ……悪い、俺先にシャワー浴びていいか」
 アルコールは殆ど飛んでいたが、汗をかいた状態で家の中をうろつくのが七朗は好きじゃなかった。
「勿論」
「あんがと。一瞬で終わる」
 客人をおいて一人先にシャワーを浴びる、というのはマナー違反にあたるだろうかと考えたが、ここで先に浴びてくれと言うのも変な気がした。
 実際、ただ汗を流すだけなら五分と待たせない。急いだフリをする訳でもなく、いつも通りの感覚でシャワーを浴びる。
 ――あんま深く考えてなかったけど
 バスルームが一緒なのはちょっと気まずかっただろうか。間取り上仕方のないことだったが、今更そんなことを考えながら短い髪もさくっと洗った。
 シャワーを終えてリビングに戻ると、エイリークはソファに座ってどこかと通話しているようだった。
 クラシカルな雰囲気のサングラスをかけているが、恐らくそれが彼の通信端末なのだろう。昔チャットで生体端末をとりいれていないと言っていたが、本当だったようだ。
 口を動かしているが、そこから発せられる音が何を表しているかは解らなかった。恐らくノルウェー語だろうが、英語の時よりも音が低く感じる。
 話者の総数から言っても、ノルウェー語は日本語以上にセキュリティの高い言語かもしれないな、と思いながら水を二人分グラスに注ぎ、オットマンに腰掛けて通話が終わるのを待った。
 二分程で通話は終了し、エイリークは端末を外して七朗に謝罪した。
「気にするなよ。仕事だろ」
「でも嫌じゃないか、訳のわからない言葉を喋られるのは」
 エイリークの気遣いはどこか的外れな気がする。それも文化の違いと言ってしまえば簡単だが、世界が狭くなった昨今、異国の文化や慣習にギャップを感じることは少なくなっていたから引っかかった。
「別に。気になったら翻訳かけるけど、人の通話を盗み聞きする程性格悪くねえよ」
 仕事なら尚更、と言うとエイリークは納得したようだった。
「そうか。……ご両親は、ずっと研究所の方に?」
「ああ、多分来月一杯は向こうだと思う」
 エイリークの滞在期間中にこっちに戻ってくるという事は聞いていなかった。
「ご挨拶したかったな」
「通話ならできるけど」
 すっとぼけたように言うと、「そうじゃないよ」ときちんとした否定が入る。
 解ってるって、と肩を竦めた。



 七朗の両親は、南太平洋上のスペースクラフト・セメタリーで発掘と調査に携わっていた。
 パパ・リクとパパ・キーツ。
 どちらもパパと頭につくのは、二人が生物学上男性であるからに他ならない。
 リク(陸)は渉外担当の為この東南アジア最先端の都市シンガポールで勤務しているが、キーツ(基一)は研究者で、一年の殆どを洋上で過ごしている。
 二人もまた天啓によってメイティングされたパートナー同士だったが、日系人同士であり、周りからは自由恋愛だと思われている位仲が良い。
 これらの情報は、トールのポジティブな印象操作の為に研究所の広報資料になってもいた。
 思春期の頃、両親が研究所に良いように使われていると憤ったこともある。しかし、もう随分昔のことのように感じた。


 ――その二人に会いたい、っつうのは
 メイティングの経験者から何かを聞きたいからか、それとも何かの許しを得たいから、なのだろうか。
 以前、エイリークの遺伝子情報を見たことがある。
 彼の家系がメイティング候補になったのは、これが初めてのことだった。であれば、七朗の両親に色々聞きたい事もあるだろう。
 きっとそうだろうな、と思いこむ事にする。
「俺は朝七時には起きる。メシはいつも外に食いに行くんだ。――今日、どうしても話さないといけない事、あるか」
 そうじゃないなら、明日、一緒に飯に行こう。
 さっきエイリークが言いかけた言葉も、明日ならスムーズに出てくるかもしれない。別に今言われても構わなかったが、シャワーを浴びたらどっと疲れが出て来てしまった。
 七朗は、まだ少し濡れている髪の毛を後ろに撫でつけ、目を伏せる。
 視界の端で、エイリークが頷いてくれたのが見えた。
 こちらの申し出を全てOKしてくれる彼に、申し訳なさがつのりだす。
 ――少しだけ、少しだけだ
 この罪悪感は、まだ無視できる程度だ。
「……シンガポールの朝食は、トーストが有名なんだったかな。解った、おやすみ」
「ああ、うまいとこに連れてってやる。――良い夢みろよ」
 ドギーがスーツケースをゲストルームに運び込んであるのを確認して、七朗は自室のドアを閉めた。



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